~未来を創るため、時に過去を紐解き、そこで力を得て、現在を生きる。~
いったいどれほどのパワーになっているのだろう。
本当に不思議で仕方ない。
僕の力の源泉になっていることをわかっていないのだろうけれど、
この言葉、文面からどれだけの勇気・希望をもらったか計り知れない。
これは決して一過性のものではなく、これからずっと、僕の生の終わりまで
つまり僕の意識可では永続的に続いていくことになるのだろう。
想いというものは色褪せない。
時が経過するにつれ、物質的劣化や損傷は致し方ない面がある。
しかし、そのときの気持ちは全くもって変わらないどころか、
忘却という現象がここには適応せず、その時間的経過に比例するが如く、
記憶のなかで想いが増幅されていく感がある。
果たしてこれが当時、どれほどの想いであったかはわからない。
時に、遠い日の思い出は
そのノスタルジー的要素が加味され美化されがちであることからも、
究極的な自己意識の問題であると言えるだろう。
しかし、だからこそ何人たりとも踏み入れることのできないテリトリーであり、
聖域だとも言える。
読み返し、あの日々を想起する度、切にまた会いたいと願う。
今もどこかで僕の知らない世界で社会生活を営み、生きている。
そこにもう僕という存在は一切というほど介在していないのは明白で…。
だけれども、こんなところに未練や悲しみは抱くことは無い。
共に生きたことに変わりはなく、あの日々は何も変わらない。
今はそれぞれの道を歩んでいて、僕自身、今を生きている。
僕が生きることができている理由のひとつはここにある。
あの日々がなければ、僕はこれほどストイックなまでに自らを律することはできていないだろう。
そしてまた、言い訳しない理由・限界を作らない理由もここに見え隠れしている。
恥ずかしくないように、再び胸を張って会えるように、生きていくだけだ。