冬なので寒いですね。 クリープハイプの『死ぬまで一生愛されてると思ってたよ』を聴いています。 さて、微妙にぬくいパナソニックのDS-F1202(2013...

2014年初投稿になります。まだぎりぎり29歳。だけど今年30代に入ります。

Update:2014-01-03 (金)
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冬なので寒いですね。

クリープハイプの『死ぬまで一生愛されてると思ってたよ』を聴いています。

さて、微妙にぬくいパナソニックのDS-F1202(2013/1/23にアマゾンで購入)の温風を浴びながら、
手は少し冷たくなりながら、タイピング。一週間ぶりぐらいのPC起動。

昨年も激動でした。そして、12月に29年間の人生最大の悲しい事件がありました。
あと僕は何年生きるか、10年か20年かわかりませんが、これほど悲しい事件はきっと、
親や家族が不慮の事故や殺人で死ぬとか、そういうこと以外は考えられないなーと思います。

今後の人生においても、非常に大きな事件があり、僕の人生観、死生観、対人コミュニケーション、
あらゆるものを全て、根底から覆し、この世界を改めて見つめ直す機会となりました。

僕自身、現在こうして生きていることすら、かなり奇跡にも近いと思います。
僕は自ら、自死を選択することはありませんが、満身創痍、疲労困憊、神経衰弱、心身が弱り切り、
ふらっと、交通事故など、予期せぬ事態に巻き込まれる可能性が高かったと思います。

12月の事件から2週間ほどは、ずっとそんな感じでした。現在はまだ大丈夫です。

それは、まだ生きているからです。僕もですが、僕ではない人も。生きていることが、全てです。

また1年後、5年後10年後、いつか少しはもう少し細かく描写できればと思います。

立ち直ることはできず、傷は癒えることも無く、自分の考え方、認知をどう作用させていくか、
そういうところに膨大な時間と心の力を使いました。まだまだ消耗していくしかありません。
ここに時間を、リソースを割かない限り、まともに生きていくことは非常に困難な状態ではあります。

改めて感じたのは、人と僕の違い、私利私欲、我欲といったものです。
集中をしなければならない。信じることと放置は違う、といったことです。

また、人によって、その生まれ育った家庭環境により、全く他者の捉え方も異なるということです。
こちらも僕にとって非常に大きかった。これはまた別で書きたいと思います。

どちらにせよ、とても悲しく、苦しく、辛い一年だったと思います。

誰にも理解されないこと、決して他者とはわかりえないこと、そういうことが悲しい、苦しい、
孤独であるということではなく、そういうのは大前提として、この世界に生きる上でもちろん常に在って、
それは別におかしいことではなく、そういう主体性で、この世界と自分を定義づけておく方が、
結局は自分らしく生きること、一度きりの自分の人生を生きることができるわけであり、
それはそれでいいとは思っています。

しかしながら、そういう状態の自分であっても、生きる上で、社会生活を営む上で
少しは他者が介在し、コミュニケーションするわけです。
そして、そのわずかな部分ですら、大きな事件が起こり、
勘違いと誤解は生じていきます。そういうことを認識しました。

そういうことがあったということが、この世界の限界であるのだなあーと、
改めて自分の生きる辛さ、孤独、しんどさをまじまじと感じることができたのです。

とはいえ、僕自身、大きく変わることはありません。変わると言えば変わりますが、
これまでの根本は変わらず、ある程度ラフにこの世界と接していた部分があったものの、
それすらも幻想であり、真実性はなかったという現実を知っただけになります。甘かっただけ。それにつきます。

なので、僕自身はまだ何の問題も無く、大丈夫です。
ただ、この僕の方向性を良く思わない人、別の方向に持っていく方が僕自身の成功や幸せになると
そう思い込んで、僕自身を変えていこうとする人は今後も出てくるのだろうとは思います。
ただ、それらについても攻撃的になることもありません。そのぐらいの余裕はできてしまいました。結果的に。

つまり、死にかけましたが、そしてまだ今もそうですが、
それでも僕のやることは何も変わりません。何も変わらないということだけは間違いなく在ります。
そしてそのことは、決して誰にも理解できず、分からず、なぜそこまでするのか、
なぜそればかりなのか、もっと自分を大切にしないのか?家族を大切にしないのか?

などとは赤の他人からは、そして家族からもそれほど大きな理解もなく、
というのも覚悟の上で、僕は僕のミッションを遂行していくだけなんだなーと、
少なくともこの生はそうなります。それは、確信であり、間違いなく、そういう生き方となります

ってことで、僕は決して、オトナになることはないなあーとは思う。
ただ、見せかけの大人になることは、今後できるようになるなーとは感じます。
そこにはもう迷いはありません。

ただ、自分自身、そして自分の記録の中では、カッコつけず、等身大のままの、
僕のまま、丸田勝也として生きていきたいと思います。というか、これもこれまでも変わらず、なのだけど。

そして、この世界を生きる上で、この世界と触れ、人々や物事に触れる際には、
ある程度人間として、大人として、社会性は今後も発揮していこうと、改めて強く思いました。
そこへの決意を強くしたのは、この事件があったからです。

人間というものをただやみくもに、漠然と、投げやりに信じるのではなく、
そういった自分の想いをぶつけるのではなく、それは対等な、健全な関係性ではなく、
ちゃんと世界と他者を理解し、自分をうまく合わせていく必要性を認識しながら生きていきたいと思います。

また、ちゃんといろんなことを、考えを、記録を、想いを、設計を、
あらゆることをもっと遺しておかなければならない、そう感じました。

別に怒ってはいませんよ、悲しみに打ちひしがれているわけでもありません。
そういう時間はもう過ぎ去りました。何とかその部分は乗り越えたって感じかもしれません。
ただ、許すとか許さない、忘れるだとか、未来のことを考えるだとか、そういうものではなく、

身体性の強く、生理的な問題であり、自己認識という認知での制御を試みるものの、
ま、さすがにそういう問題じゃないよねー、殺すか殺されるか、死ぬかどうか、
そういうレベルの事象であり、問題であるということを、少しは介在しようとして来る第三者、
または当事者の皆様には強く、念頭に置いて頂けると大変ありがたいなーとは思います。

ただ、それが無いとしても傷つくということも特に超えているので、大丈夫ですが。
そういう人間の生まれ育った価値観、世界観、人生のゴールや過ごし方など、
そういうことが自分と、丸田勝也では異なるということを理解し、僕のことを理解するのではなく、
そういう違いを理解することで、多少は僕とのコミュニケーション、関係性も良好になるのではないかと、
そんなことは感じます。

ものすごく間接的に、間接的を繰り返すことでダイレクトな感じの文節にはなりましたが、
これが僕の中での限界であり、直接的な表現であり、諸々とご理解いただきたいところですね。

『違う』『大きくとらえること』『未来を考えること』とかではなく、
これが真実なのです。僕自身の身体性のある生身の結論。これを書き換えることも、変えることもできず、
もしそれができるとすれば、僕と同じような心境で、僕と同じ価値観で、この世界をとらえ、生きていると、
もしかすると少しは近づけるかもしれません。ただ、そんなことをせずに、自分の人生を生きるべきですよ。

それぞれが、70億人が、それぞれの人生を懸命に生きればいいし、
私利私欲、気持ちよさ、笑顔、快楽の希求であればそれはそれでいいと思うし、
僕のことは構わなくていいし、僕自身を巻き込まなくてもいいし、そしれ僕が社会的に成功せずとも
他者から見てもの幸せに見えなくても、それはシアワセノカタチが異なるだけだから。

悪い人間じゃないと思うのだけど、結論僕が一番、僕の存在は、きっついのかもなあ。
だからこそ、なるべくいろんな人に触れずに、ひっそりと生きていこうとも思うのは、
自分の中での制御、世界の中での理解があるからなのかなあとも思う。

必要とされてないならば、構わない。
だけどそれが、かなり残酷なのかもしれないね。

さて、長くなるので、ま、この辺で。
ただ徒然と、ざっくりと書いた2014年の初投稿はこのあたりで終わりにしておきます。
長生きするつもりはなかったものの、あと数年は絶対は生きていたいと思います。

ってことで、今後は、ある程度まとまった文章での記事を、ここのブログかここで書いていきます。
Twitterは減らす方向で調整はしています。

以上。

丸田勝也

丸田勝也 公明正大に、誠実に。
あなたの考えを聞かせて下さい
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